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平成18年12月議会 一般質問要旨 2006.12.08

平成18年12月議会 一般質問要旨
 通告に従いまして、大きく4点。1点目、来年4月(平成19年)から施行される、改正地方自治法について。2点目、三隈川を中心にした河川汚染・浄化策について。3点目、公の施設の開館時間について。4点目、日田市の三つの宝、小迫辻原遺跡、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡、金錯鉄帯鉤を中心に文化財の生かし方について質問しました。
 
 まず最初に、改正地方自治法が、本年5月31日に国会において可決、成立し、6月7日に公布、来年(平成19年4月)から、施行されます。これは、第28次地方制度調査会における「地方の自主性・自立性の拡大のあり方」を踏まえたものです。

 この改正の大きな点は、2点あります。
  1点目、助役に代えて副市長を置き、その定数は条例で定める。
  2点目、収入役は廃止し、職員の中から会計管理者を置くことです。

 日田市は、今年の3月から助役不在の状況が続いており、いまだ新たな選任が行われていません。他市では、既にこの改正を受け、地方分権・地方主義の時代にあって、多様な政策課題に的確にすばやく対応する為に、トップマネジメント機能を強化する為に、収入役を廃止し、助役2人制を導入するところも出てきております。日田市の今後の体制をどうするのか質す。
 
 2点目、三隈川を中心とした河川環境の維持改善策について質す。
 河川汚濁の証拠の写真を提示しながら、河川汚染を浄化する対策が急務と思われるが、日田市の考えを聞く。また、河川の水質浄化を図るために、三線分流(庄手川・隈川、島内堰・筑後川、三隈堰)の改良。固定堰三隈堰の改良についての考えを質す。
 他に、直接浄化施設・バイオ有用菌・EM菌などの活用を考えられないか。また、ダムの貯水対策(死に水)・ダムの水質改善・水質調査・底水の流す時期等も質す。

 3点目、公の施設の利用制限などについて質す。利用時間の制限については、先に、日田市立図書館が開館時間の延長を実施し、利用者が増えており、市民が利用する施設は、他にもたくさんある。なかでも大勢の市民が活用する中央公民館は、本来の開館時間内以外の利用を希望する団体もあるので、市民の利便性を考慮した、これらの要望に配慮した開館時間の弾力的運用ができないか質す。
 また、葬斎場の改良について、後火葬の増加の増加などにより、葬儀と火葬の待ち時間を過ごす時間帯が重なり、市民最期の儀式に厳粛さを欠くため施設の改良を求める。

 4点目、日田市の「三つの宝」小迫辻原遺跡・金銀錯嵌珠龍文鉄鏡・金錯鉄帯鉤を中心にした、文化財の生かし方について質す。
 
 日田市の「三つの宝」とは、別府大学教授だった、故賀川光夫氏の指摘による。教授もこれらの宝は、日本の歴史にとって重要な、そして唯一のものであり、その価値は計り知れない。
 私も同感であり、新井信介氏の説を加味するとなお一層の重みが出てくるし、これをマチづくりに使わない手は無い。
 

 小迫辻原遺跡は、日田市大字小迫の通称辻原と呼ばれる台地上にある。この台地は、東西約700m、南北約400mの平面三角形の独立台地で、標高は約124mである。 日田盆地 の中では北側にあり、周辺にはほぼ同じ高さの宮ノ原 草場 山田 朝日 吹上といった台地がつづく。これらの台地は、弥生時代から古墳時代の大規模な集落や墳墓が確認され、また、その斜面や崖面には数多くの 横穴墓 が存在している。
〈環壕居館の発掘〉
 遺跡の調査は、九州横断自動車道の建設に伴い大分県教育委員会が昭和60年(1985)より行った。発掘調査は、路線内となった台地南側の幅40m、長さ700mであったが、その全面にわたって弥生時代から古墳時代にかけての 住居跡 や 墳墓 と、中世の建物跡などが発見された。この中で特に注目されたのは2基並んで発見された大規模な環壕遺構で、調査がすすむにつれてわが国最古の 豪族居館跡 であることが判明した。
 1号居館は、壕の外側で一辺約47mの正方形をしており、壕の内側では 掘立柱(ほったてばしら)建物 1棟が検出された。壕は上幅約3.5m、深さ1.1mを測り逆台形をしている。また、この建物跡は東西3間、南北2間以上の総柱建物と考えられるが、北側が削平され本来の規模は明らかにされなかった。遺物は壕の底面より約10㎝上に集中し、 甕(かめ) 小形 壷(つぼ)が多く、円形浮文を貼りつけた二重口縁壷も出土している。2号居館は、東西約37m、南北約36mの方形を呈し、壕は上幅約3m、深さ1mを測る。壕の内側は、調査区が一部であり建物跡などについては明らかでない。ところが、壕の内側約2mには壕と平行して幅50㎝、深さ30~60㎝の溝が検出された。また、この溝の内側壁には小さな穴が不規則ながら並んでおり、このことからこの溝は、組立てずみの柵や塀といった構造物を立てるために掘られた溝と考えられる。つまり2号居館の中は、柵や塀などで目かくしされていた可能性が高いのである。遺物は、壕の床面より20~30㎝上で、1号居館とほぼ同時期の甕や小形壷などが出土した。
〈豪族居館の意味するもの〉
 小迫辻原遺跡で発見された2基の環壕居館は、出土した土器から布留式最古相期に位置づけられ、3世紀末~4世紀初頭の年代が考えられる。しかも、この2基の居館には時期差がなく、同時期に併存していた可能性が強い。古墳時代の居館跡は、これまで北関東や近畿地方を中心に発見されているが、小迫辻原遺跡のように壕に囲まれた居館が2基並んで発見された例はない。またそれらの年代は、5世紀から6世紀のものが大半であり、小迫辻原遺跡の居館は、わが国最古というだけでなく居館の構造や性格を考える上にも重要な遺跡といえる。 古墳時代の豪族居館については、 古墳 出土の 家形 埴輪(はにわ) や 家屋文鏡 に表現された家屋から、ある程度その構造が復元されている。しかし、実際にこうした豪族居館の存在が発掘調査で注目されるようになったのは、昭和55年の群馬県三ツ寺遺跡の調査が最初である。それ以来、推定地を含め約30例が確認されている。このうち北関東を中心とした居館跡は、壕の内側に竪穴式の建物が主となっているが、三ツ寺遺跡では柵または塀をもって北区と南区に二分され、南区はこの館の主屋とみられる3間×3間の大型掘立柱建物がある。そしてこの西側の石敷遺構周辺では、 子持 匂玉(まがたま) などの 石製品 が多量に出土し、この場所で政治的な 祭祀(さいし)儀礼の行われたことが考えられている。一方、北区は竪穴住居跡があり生活の場である。また、群馬県原之城遺跡でも、 須恵器(すえき) の子持器台や子持匂玉など多数の石製品が出土し、ここにおいても重要な祭祀儀礼の行われたことが明らかになっている。
 これらの遺跡は、5~6世紀代の居館跡であるが、小迫辻原遺跡の居館跡は、 卑弥呼(ひみこ) の死からわずか数十年しか経ておらず、首長の職務として祭祀儀礼が行われていたのは当然である。すなわち、小迫辻原遺跡で発見された2基の居館のうち、1基は日常の生活の場、残る1基は政治的な祭祀儀礼の行われた場と考えられる。
 日田市には、この時期の古墳は発見されていない。もし最初から存在しないのであれば、 ヤマト政権 の組織下に掌握される以前に、こうした居館を構えた首長が存在したことになる。つまり、ヤマト政権とは関係なく、各地には弥生時代と違った支配体制が確立していたことになる。いずれにしても、小迫辻原遺跡の居館跡は、わが国が統一国家として誕生する前夜の、重要な時期の様相を解明する大きなカギを握った遺跡といえる。遺跡の周辺は、その後、日田市教育委員会よってにすすめられ、あらたに同時代の壕や奈良時代の建物群が発見され、近く全体的な姿が明らかにされるであろう。
 参考文献 大分県教育委員会「小迫辻原遺跡」『九州横断自動車道建設に伴う発掘調査概報Ⅴ』
[渋谷 忠章]

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