日中文化交流蘇州市一行を迎えて歓迎会 2007.9.1
日中文化交流蘇州書画展一行を迎えて、歓迎会を「ひびきの郷」で開催しました。 出席者は、蘇州市に所縁のある人たちで、佐藤陽一市長夫妻も参加しました。市長は、県職員時代に大分県と蘇州市が観光交流協定を結んだ際に係わっています。そのようなエピソードも交えながら、佐藤市長も歓迎の挨拶をしました。
佐藤市長に、張継馨さんの梅を描いた作品が贈られ記念撮影です。
私も、乾杯の挨拶を頼まれたので乾杯の前に少し、日田市と中国の縁あるところを紹介しました。
まずは、何といってもダンワラ古墳から出土された金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と金錯鉄帯鉤です。
当時の、中国でも三国志の時代の魏の曹操クラスの皇帝しか所持できなかった鏡です。当然、中国で作成され日本に渡り、日田の地に来たもので、その由来がわかれば、日本の歴史ももっとしっかりしたものになるでしょう。そして、日本史における日田の歴史的な位置づけも。そして、三国志の三つの国とは、魏・呉・蜀で、最近まで呉県として行政区を持ち国名を残していました。この呉県が蘇州市へ統合され、その呉県と交流していたのが大山町で、その関係が今でも民間レベルでは続いています。
これに、日本の環濠集落のなかで最も古いといわれている小迫辻原遺跡を加えれば、「日田市の三つの宝物」となります。そうすれば、大和の起こりは、日田から・・・・・・・・・。 次に、日田市のJR光岡駅近くにある岳林寺です。このお寺は、天皇家の安泰を願う勅願寺でもあり、天皇が通るときしかあけることが出来ない勅使門があります。この寺院を建立したのが、後醍醐天皇です。1342年後醍醐天皇の勅願(勅命による祈願。天皇の祈願)により元の帰化僧、明極楚俊が開いたと言われています。この明極楚俊は、京に上る前に、この日田の地を通過しています。後醍醐天皇からお寺を造るといわれたときに、明極楚俊は、九州の地に日田というところがあり、自分のふるさとに似ているので、この地にお寺を建立したいと願い出ます。この自分の生まれた中国の故郷に似た地、「ひた」という、この一言は意味深長な言葉じゃないかと私は見ています。 この岳林寺の裏山は丘陵地で、南側斜面に200基近い横穴古墳墓、頂上部は平坦部分で、相当の地位にあったと推測される遺骨、埋蔵物が入った甕棺墓がいくつも出土しています。 これらが渡来系の人々であったとしたら、勅願寺を建立するに相応しい・・・・・・・・・・・・。 最後に、現在日田祇園会館の二階に展示されている「官聖廟」という三文字が書かれた額です。最後の文字は、パソコンで出てこない文字なのでこれに近い文字を使っています。この額は、菅原道真公の社に掲げられていたのを、社を壊し八坂神社内に移した際、放置されていたものを、祇園会館に展示したとのことで、建立したのは、掛屋の「森家」です。
この三文字に直ぐに気がついたのが、新井信介氏でした。「川崎邦輔さん、この額の由来を調べて」と言われ、すぐに階下に降りたら、ちょうど後藤稔夫総代がいて、先のあらましを教えてもらいました。
新井信介氏が目を止めたのは、年号と名前でした。年号が「乾隆」と書かれていますが、これは中国の年号です。そして、書いた人の名前を見ると、まさに中国人の名前です。 どうして江戸時代に、日田の地でこの額の文字を中国人に依頼したのか?どこで書いたのか?
天領時代、日田の地にいた郡代が、長崎に運び込まれた輸入品を未開封のまま日田の地に運び、先に要るものを郡代が取り、また長崎に戻したという話が残っています。
九州の山の中の地ですが、海外との交流のあとを垣間見ることが出来る地が、日田の地です。
中国の首都は、都はすべて内陸部です。日田の地が、古代からの九州の中心地の一つであってもなんら不思議でもありません。 それと、依頼を受けている「日田金」のなかに、掛屋の大名貸し以外に、当時の日本と中国の金銀の交換レートの違いを利用した利ザヤが含まれていないのか? ・・・・・課題がたくさんあります。・・・・・ こんな話を簡単に乾杯の前に、通訳を入れてお話させて頂きました。
宴会では、画家の方たちと中国語が出来ないので、漢字で筆談し交流を深めました。 横尾さんは、張継馨さんの作品を額に入れてきて、さっそく皆さんに披露しました。