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2007年7月のブログを読み直す 2009.5.18

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2007年7月の自分のブログを読み直しています。当時は、日田市長選の最中で、ローカルマニフェストの検証大会を見た時の感想を、ブログに書いていますが、そのなかの言葉です。先日の臨時議会、新市長に変わっての1年10ヶ月、そして今後の国政を左右する衆議院選挙、改めて読み返してみると、期待に反することばかり、こんな筈ではと思いつつ、頑張らばければと言う気持ちになります。

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【地の塩】ちのしお ―しほ 1-2

 〔マタイ福音書五章「汝らは地の塩なり。...汝らは世の光なり」から〕   

 塩が食物の腐るのを防ぐことから、少数派であっても批判的精神をもって生きる人をたとえていう語。


         ★     ★     ★


 忙中・閑をぬすんで、古人の名著などを拾い読みしておると、思わずつりこまれて要事の方を忘れてしまい、気がついて独り苦笑するようなことが少くない。

 ある朝、文庫に入って必要な参考文献を探しておると、久しく忘れておったカーライルの名著『英雄及び英雄崇拝』が目についた。何ということなく手にとって散見しておると、ふと心をひかれる一文に出会った。

 「偉大な、静かな人! 軽薄な言論、浮薄な行動の多い、騒音に溢れた味気ない世間を見廻せは、思考は好んで沈黙の勝れた王国に向う。

 高貴な、静かな人々、それはあちこちに散在し、それぞれ己が領域を守る。静かに考え、静かに行い、新聞に載ることも無い人々! それらは誠に地の塩である」。


 - まことに同感である。


 曽て印度の国師マハトマ・ガンディ、「大衆を指導しようと思う者は、断然大衆に指導されることを拒否せねばならぬ」と青年たちに力説した。

 民主々義は衆愚政治に堕し易いが、ガンディの言葉は特に政治家に願わしい名言である。

 「大衆の声 - それらはいくら集まっても、騒音になるばかりで、音楽にはならぬ」とトーマス・マンが喝破しておったが、志有る人々は独立独行を恐れてはならぬ。

 日本の思想界にもよく知られたソ連の詩人・パステルナークPasternak(一八九〇-一九六〇)も

 「群居は凡庸な人間の最後の逃避場だ。真理を求める者は〝独″にならねばならぬ」と言っているが、古来東洋の哲人はみな〝独″ に徹した人々である。


 志有る人々は群衆に誤られてはならぬ。

(「人間を磨く」日進報道 昭和六十三年)

2007年01月14日【インスタント文明の悲劇】


【インスタント文明の悲劇】


    対話:安岡正篤竹井博友
    (「安岡正篤とその弟子」 竹井出版 昭和五十九年)


 ■人間文明の没落

竹井 経済の高度成長はたいへんなものですが、同時に混乱もひどいものがありますね。

安岡 精神の高度成長が伴わなければだめです。伴わなければ、人間文明は没落をまぬかれません。
 トインビーという歴史学者が、舌代世界の衰頽は、精神的衰頽の結果だと言っています。
その原因を経済から説明しようとするのは、本末転倒だと論証し、ケンブリッジのパラグラフ教授も、ソ連とアメリカが協力してもどうにもなるまいと言っています。
 ところが、こういう論は、すでに第一次大戦の後にシュペングラーが言っているんです。

竹井 『西洋の没落』という本を書いた人ですね。

安岡 もとの題名は『沈みゆくたそがれの国』といいます。題名のとおり文明について悲観的です。トインビーの『歴史の研究』は同じことを言っているにすぎない。
 トインビーを引き合いに出したのは、現在高名だからで、そんなことは『論語』が何千年も前に書いていることです。

 トインビーは活路を求めて研究したのですが、彼に示唆を与えたものは易の哲学、陰陽の原理です。易では連環(循環)の理法というのがあります。窮することはないということです。

 経済が栄えて、人間が豊かになると考えるのは間違いです。衣食足れば既ち栄辱を知り、倉廩(りん)実つれば即ち礼節を知るというのはひとつの通則ですが、その逆もいえるわけです。

竹井 よく食べて病気になる例がありますね。

安岡 アメリカの病理学者リヒターがネズミの飼育で面白い研究をしています。ネズミを二組に分け、一組は自由飽食派、一組を試練節食組にして飼育したら、栄養のいい、ぜいたくネズミは、ふとって遅鈍になり、頭もにぶく、やがて60%が死んでしまった。引き締め組は、動作も頭も機敏で、毛並もよく、同じ期間に20%しか死ななかった。
 人間にも空腹が必要で、西独では、繁栄に伴って、人間がロースハムのように太り出し、病気や堕落がひどくなったということです。思想的にも欲ばって飽食はいけません。

竹井 物質的繁栄だけではだめで、没落するということですね。

安岡 福祉国家は、だから、全部だめです。スウェーデンもイギリスも。

竹井 企業体でも同じことでしょう。

安岡 実業家がぜいたくしたり、楽をしてはだめですね。精神的に養われなくてはいけません。
竹井 精神の高度成長はどうやって?

安岡 民族の精神を与えることです。哲人や偉人を国民に鼓吹するのです。とくに女性に与えることが大事です。
 女性は子供を生みます。生物進化の歴史を見てもわかるのですが、種族が発達してとまります。その子供は、その発達の頂点から出発するかというと、そうではない。子供ははじめからスタートです。ですから、どういう胎児ができ、どう育つかが肝心です。
 ですから、結婚を享楽的に考えてはいけません。

竹井 いまは国是がどこにあるかわかりません。進む方向がわからない。高度成長はいいが、どこへ行くかが疑問ですね。

安岡 これは政治家の責任です。政治家は国家百年の大計をたてなければならない。ところが、アメリカ・デモクラシーを投げ与えられ、それだけで速成してきた。
 鶏やうなぎのインスタント飼育がいい例です。化学飼料で育成して、肉はブヨブヨで栄養にはなりません。肝心の肝は全然だめです。

竹井 大学法が成立し、学生たちに対する批判もようやく強くなっていますが   -。

安岡 これほ永い不養生の連鎖反応です。大学の永い退廃の結果です。
 病源は精神教育が欠如しているからですが、「明治」にも責任があります。明治時代はスターリンやフルシチョフのやり方と同じで、「追いつき、追い越せ」 がスローガンでした。毛沢東の「大躍進」も同じです。
 科学文明に追いつくことに、明治は成功したが、インスタンチズムに伴う欠陥を忘れたのです。大学から中学、小学校までの学制を整備して、知識や技術の速成教育だけが出来上がったのです。

竹井 かたわというわけですね。

安岡 わずかに「修身」があっただけです。

竹井 無味乾燥なあれですね。

安岡 それでも明治は前代の遺産があったからまだよかった。大正へ入ってだめになって、ここから堕落が始まった。そして第二次大戦で決定的になった。戦後の乱脈をなおすのは容易でありません。

竹井 学生の暴状は、目をおおわせるものがありますが!。

安岡 言語道断ですが、歴史を振り返れは、おどろくこともありません。
 南都(奈良)北嶺(叡山)といえば教学の本山ですが、王朝末から鎌倉時代へかけてそこの山法師は闘争をこととした。白河法皇が賀茂川の水、すごろくのさいと共に、心のままならぬと嘆ぜられたのがこの山法師輩ですが、今日のヘルメッ卜・ゲバ学生の古代版というところです。
 これに愛想をつかして奮発した真剣な求道者によって初めて新仏教は興ったのですが、今日も真の正学をおこす青年の輩出すべき時です。
 また学者というものは、昔から、いまのいわゆる進歩的文化人の源流をなす者が多いのです。故吉田首相の放言で新しく有名になったいわゆる曲学阿世の徒です。


 ■意味を求める意志

竹井 若い連中に接して見ると、損か得かということで判断するものが多いですね。
安岡 享楽と利己主義が多い。己れを空しくするというのが理想なのですがー。
 ウィーン大学の精神医学の教授でフランクルという人がいます。アウシュヴィッツというナチスの収容所の唯一人の生存者です。アウシュヴィッツほ、毒ガスで大量虐殺をやったので有名ですが、フランクル教授だけが助かった。そのフランクル教授が次のように言っています。
「人間の欲望はたくさんあるが、根本的なものは、意味(意義)を求める意志である」
 この意志がないと虚無になります。今の学生はこの状態にあるのです。大学へ入っても意味がなく、感激もありません。だから破壊に訴える。彼らが〝ナンセンス″(無意味)を叫ぶのは、そういうことです。

竹井 教育者の側にも責任はありますね。

安岡 代々の政治の責任です。これから本筋に返さなければなりませんが、それには知恵と手段が必要です。老練にやらないと頓死します。
竹井 従業員を使う場合愛社心とか愛国心とかいっても、若い人はこっけいに思うようです。

安岡 模範社員をつくることです。革命でもそうです。優秀な分子をあらゆる機関にいれる。アクチブというやつです。それが模範社員になって実権をにぎる。そして時期が来れは蜂起するわけです。
 チェコは革命が起こらぬ国といわれていたが、この方式で起こった。この道をやればいいわけです。
 チェコといえば、ソ連はチェコの自由化を弾圧して「社会主義大家庭全体の安全に脅威が現れた時は軍事干渉を行う」と宣言しました。どこに一体大家庭がありますか。中共はこれを〝ソ連修正主義社会帝国主義強盗理論″と評しましたが、その中共の文化大革命は中国史空前の文化大破壊の暴徒理論です。

竹井 いまの議会政治を見ていると、民主主義と独裁の功罪を考えたくなりますが-。
安岡 わが国の民主主義選挙制によると、市民はみな主権者で、参政権によって誰かに投票してやるのだと考えており、まさに「ただ息をしているだけの人間でも同じ一票」というもので、その一票を少しでも多く集めるために候補者は手段をつくして恥も外聞も顧みない。これが反省され、是正されねば救われませんね。 民主主義、独裁といっても、春夏秋冬と同じで、機械的に割り切ることはできないでしょう。要は、生きた人間の生きたことば、生きた行為、これが反映しなければだめだということです。

 教育の教という字は「効」と同じで、「ならう」「手本」という意味です。手本がよくならなければ、何をいってもだめです。そこで良い指導者や健全なマスコミが要るのです。
志ある人々が自ら立って、その場その場で、力の及ぶ限り、新生活運動、新道徳連動を起こすことです。神道の一眼目は清浄ということにあるが、いまやこの清浄の国たるべき日本が、何とも話にならない不浄の国になっています。
 ところで、私は昔から健康には気をつけていて、体を弱アルカリにするようにしています。

竹井 私は酸性のものは食べないようにしています。

安岡 アルカリも強すぎると悪いのです。アルカロージスといいましてね。
 酸という字は「いたむ」と読んで、酸性はよくない。酸敗とか辛酸とかいうでしょう。
私は漢方の心得がありますが、飲食については合理的ですね。
 酒も相手によって飲みます。自分をよく知ってくれる人物と会って、酒を酌みかわす時は、覚えず過ごしてしまいますが、対話がしっくりいかぬような柏手や、とぼけた相手などと語るくらいつまらぬものはありません。


 「酒、知己に逢えば、千鐘も少なし。話、機に投ぜられば半句も多し」という名句があります。
 世間流行の対話などというものも、大抵途中でいやになるものが多い。それよりも大切なのは独語です。それは自分が自分の心神と対話することです。
                                  
(『大自然会』昭和44年11月発行より)


 

DVC00348mk.JPG志有る人々は独立独行を恐れてはならぬ。

詩人・パステルナークPasternak「群居は凡庸な人間の最後の逃避場だ。真理を求める者は〝独″にならねばならぬ」と言っている。
古来東洋の哲人は、みな〝独″ に徹した人々である。
 志有る人々は群衆に誤られてはならぬ。

そして今、私は無所属議員です。

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