日田市の歴史、文化をどう広げる 2009.6.6
自分のブログのアクセスチェックで、このような記事を見つけました。西日本新聞は、自宅で購読していますが、この記事は見落としていました。なかなかにすべてに眼を通すのは至難の業です。廣瀬淡窓に咸宜園を知っていますか?答えは、「え~っと」では、寂しすぎます。私は、月隈小学校の卒業で、この小学校が「咸宜」「桂林」の二校に分かれていますが、母校の名前が消えている事は、非常に淋しいものです。
この月隈小学校での6年間で、特に大久保正尾校長から聞いた話は、今でも脳裏に残っています。廣瀬淡窓はもとより、咸宜園、日田どん、日田の地名の謂れ(豊後風土記)など、担任が休みの時はクラスで、木造の講堂では、学年単位で。一番楽しい時間でした。当時の月隈小学校は、校歌の中で「・・・集う健児1500・・・」と謳われていました。
月隈の名前も、日の隈、星隈にならんで、三丘の一つを使っていて、月隈小学校の名前を変更した教育委員会に、当時真剣に憤りを覚えたものでした。
大分県日田市の「水郷ひたキャンペーンレディ」の審査をした
大分県日田市の「水郷ひたキャンペーンレディ」の審査をした。応募者の中から面接で3人を選んだのだが、審査員の市長や観光関係者が"絶句"した場面があった。「広瀬淡窓と咸(かん)宜(ぎ)園について説明を」の質問に「よく知らない」の答えが多かったからだ。
市立図書館にも「淡窓」の名が付くなど、今も敬愛されている。よそ者の私ですら江戸後期の儒学者にして漢詩人、私塾咸宜園を開き、門弟3000人。多くの逸材を輩出した、と功績をそらんじることができる。
それだけに日田観光のPRをする女性たちの「タンソウ? Who」の反応に、審査員は思わず冷や汗をかいたわけだ。咸宜園教育研究センターの建設計画を市教委が発表した際、記事にしようとしたら「市議会に説明していない」と詳細の説明を拒否されたことがある。議会も大切かもしれないけど、若い人にも説明しないと... (岡田)
=2009/05/20付 西日本新聞朝刊=