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テンペスト 冊封(さっぽう) 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 2011.08.12.

IMG_640420110812.jpg IMG_639820110812.JPG 夕食が終わり仮眠して目が覚めると、偶然NHKBS時代劇ドラマの「テンペスト」に行き当たりました。再放送ですから一気に初回から第三回まで楽しめました。最近は、韓国ドラマが日本の放送界を席巻していますが、「テンペスト」のストーリー、キャスト、映像など申し分ない出来栄えで、一安心しました。

 

 ドラマのなかで「冊封使」が登場します。「冊封」と聞くと、直ぐに思い出すのが日田から出土した「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」です。新井信介説によると「魏の曹操」が、「卑弥呼」を「冊封」する為に「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を使用したと。

 テンペスト・・・・

http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/tempest/

 ネタバレ・テンペスト・・・・http://nyataroo.blog129.fc2.com/blog-category-135.html#entry1391

 冊封(さっぽう)・・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

 琉球・冊封使・・・・http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse034.html

 首里城・冊封使行列・冊封儀式・・・・http://oki-park.jp/shurijo-park/event/festival.html

『日田の歴史を顧みる・金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に魅せられて』 

 天領日田を見直す会副会長 川崎 邦輔

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の九文字を、「きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう」と、閊えることなく言えるようになった頃には、この鏡の虜になっていた。

2009_06_25 00820110813.jpg

 直径21,1㎝、厚さ2.5㎝の鉄鏡に、金・銀や水晶・トルコ石・ルビー・翡翠の珠玉をあしらい、龍文を彫りこんだ精巧なつくりで国内唯一の出土例とされる鉄鏡。中心には「長宜子孫」の文字が。同時に出土したと言われる金錯鉄帯鉤は、革帯を留めるバックルで、金の渦巻き文で装飾され、技法的な特徴から、鉄鏡と共伴と考えられる。時代は、中国の戦国から後漢時代。紀元前三世紀から紀元後3世紀となると、卑弥呼(AD188248)の時代とも重なる。

 これらの出土物のうち、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、昭和八年、日田に久大線を建設する際に、金錯鉄帯鉤などと伴に渡辺音吉さん(104歳で死亡)方の裏庭で出現し、三芳小学校から熊本、奈良、京都、東京と数奇な運命をたどり、今、再び九州の大宰府の九州国立博物館にその姿を現した鉄鏡である。

IMG_6275mm.JPG

偶然が重なり、本当に運命的な、何か秘められた神憑り的な鉄鏡が、今、この時代に現存することに心から感謝したい。

 何時、誰がどうして、何のために、この鏡を日田に持ち込み、誰が所持していたのか。どうして埋葬されたのか。このような素晴らしい文様の鉄鏡は、日本では他に例を見みない。それだけに、伝世されることなく埋葬(?)されていたことも不思議である。

 中国の三国時代(184280)に書かれた「曹操集訳注」には、魏の曹操がこのような鉄鏡を所持していたとの記述がある。この素晴らしい鉄鏡を中国から持ち出し、鏡が好きだった卑弥呼に、貢物として賜わせ配下にするとのストーリーは、いささか飛躍し過ぎだろうか。 鉄鏡の中心に刻まれた「長」「宜」「子」「孫」の四文字は、中国の秦・漢の時代によく使われた女性に対する吉祥句で子孫繁栄を意味し、鉄鏡の縁取りの渦文は、呪術を意味し、シャーマンが所持するのに相応しいのだが。

 この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が、九州の地に再び戻ってきたのは、平成十八年の年の瀬も押し迫った頃だった。

「文化庁から連絡があり、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と金錯鉄帯鉤が九州国立博物館で展示されます。」「それも来年の一月一日、元旦からです。」

鉄鏡里帰りの第一報は、市の後藤清文化財保護課長からの電話だった。長崎の視察から帰宅途中の私にとって、ビックなクリスマスプレゼントとなり、元旦からの展示は、日田市民にとっても大きなお年玉となった。

 課長の弾んだ声が耳に残るなか、十二月八日の市議会での一般質問を振り返った。

大石昭忠市長への質問で、小迫辻原遺跡と金銀錯嵌珠龍文鉄鏡・金錯鉄帯鉤を中心に文化財を活かしたマチづくりを提案した内容だった。

 数日後、大石昭忠市長が気さくに声を掛けてきた。

「議員、あんた知っちょったつかい。鏡が戻って来るこつ。」

「はい。賢処との縁もあり。」と思わず答えてしまった。

「あん質問は、タイムリーやったばい。」

 実は、この年の十月、友人の新井信介氏を日田に招いて国際時事歴史講演会を開催した際、最後に彼はこう言い残した。

「日田の歴史が、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が表に出てきます。」

「それも、ちゃんとした形で皆さんの前に姿を現すでしょう。」

「早ければ、二〇一二年までに。東アジア経済の一体化の流れのなかでです。」

 この時の言葉が妙に頭にこびりつき、12月の市議会の一般質問に矢も立てずに入れてしまった。

 ここで、鉄鏡に関する新井信介説を少し紹介しよう。冒頭にも少し述べたが、鏡の謎を解くには、海外に目を向けなければ解明は覚束ない。

 魏志倭人伝にも銅鏡が出てくるが、この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、銅鏡とまるで比較にならない、素晴らしい装飾が施された鉄鏡である。その素晴らしい、簡単に複製することができない鉄鏡が、神社などに伝世されることなく埋もれてしまったところに、日本史の「国譲り」の真実が隠されている。

 間違いなく倭国が中国皇帝から冊封されたその証拠の品である。中国からの冊封から如何に脱却するか、それが、古代史の最大のテーマだった。

持統天皇が伊勢神宮を作り、冊封の事実を消して、太古の昔から皇祖神アマテラスが、この倭国を統治していたことを、政治的に強弁する。そのためには、中国大陸からの冊封の証拠の品は消してしまうか、粗末に扱う必要があった。

 魏の曹操からの使者が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をもって、倭国の女性支配者に取り入り、属国とする使命を帯びて九州へ。公孫一族と公孫樹(イチョウ)と祗園守り紋の関係などを新井氏は明らかにしているが、この辺は彼が執筆中であり次回に譲りたい。

 日田盆地の地勢を見ると北部九州の平野への水の供給する筑後川の源流であり、その地は山々で囲まれた盆地で、西への防御も固いし、船を使えば一気に川を下ることも出来る。中国の主だった都、北京・南京・西安・成都などを見ると、すべて内陸部にある。そのような目で見ると、日田の地は北部九州の中心で、八方に道が通じる重要な場所であることが分かる。まず、中国大陸からの渡来人であれば、日田の地の優位性を見逃す筈は無い。

 このことが、戦前から「日田は何故だか分からないが、埋蔵文化財の宝庫であり貴重なものが多い」と言われてきたことへの回答ではないか。

つい最近も、吹上遺跡が国の重要文化財となった。他に国史跡では、ガランドヤ古墳・法恩寺山古墳群・穴観音古墳(装飾古墳)・吉野ヶ里を凌ぐと言われる小迫辻原遺跡(環濠集落)がある。豊臣、徳川時代にと幕府の直轄領・御料地(天領)となった由縁だと思う。

南朝方最後の天皇、後醍醐天皇(12881339)縁の勅願寺「岳林寺(1331年建立)」もある。お寺の背後の吹上原台地の中腹には、横穴古墳群が200基余りあり、その台地上には、先に紹介した、弥生時代の有力者の甕棺墓、木棺墓が見つかり、男性はゴホウラ貝十五点、女性はイモガイ製の貝輪十七点を着けていた。

後醍醐天皇は、日田の古代史を知っていて、この地を選んだと考えられないか。そして、この地域は、光岡(てるおか)と呼ばれている。

 日田の中心を流れる三隈川(筑後川)の名前の由来である、日の隈、月隈、星隈の三丘と隈山は、日の神、月の神、星の神、神の山と読みかえることが出来る。

 また、月出山から会所宮、日の隈、隈山、高井岳を結ぶ線は、夏至・冬至のレイライン上に並ぶ。風水的にも日田の地形・地名を見るとその面白さが分かる。

 ここで、市内の上野町にある「鏡坂」に目を向けてみよう。「鏡坂」という地名の由来は、景行天皇が日田に行幸した際に、ここから見た風景が「鏡」のようだと言ったことによるとされる。

ここに石碑が建っている。江戸時代の日田の国学者であり掛屋だった、森春樹(17711834)が私財をもって四国から石を運び、建立したものだ。この石碑には、万葉仮名で次のような短歌が彫られている。書は、中国人の蒋重耀である。森家は、鎖国の時代にあっても中国人との交流が深いようである。これは、他の掛家にも言えることだ。日田山鉾会館に展示されている、森家が建立した菅原道真公の神社の扁額も中国人の書によるものだ。

話を戻そう、鏡坂の碑文にはこう書かれている。

 すめらぎの いむきたたしく このさかに

 かくるかがみの なこそくちせぬ

 昨年開かれた、第一回日田市先哲展「大蔵永常と森春樹」で、この拓本を見た新井氏は、

「すめらぎの かくるかがみ これってあの鉄鏡、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のことじゃないの」

と、いとも間単に言ってのけた。

思いがけない展開だ。 言われてみれば、「いむきたたしく」とは、東に向かっての意味だから、「鏡坂」から東を見ると、その方向には、確かにダンワラ古墳がある。そこには、隠された鉄鏡が...。封印された鉄鏡が...。

そのことを知っていた森春樹が後世に伝える為に、私財を投じてこの碑を残した。ここに新鏡坂説が登場する。昔の文献のなかに「鏡」に関する記述があれば、決定打となるのだが。磐井の石人についての昔の記述は見たことがあるのだが。

以前から、「鏡坂」の地名の由来に疑問を持っていた人は、「鏡坂から見た日田の地形が、鏡のように見えない」、と言っていたことを思い出した。

確かに、東の方には、鉄鏡が出土したダンワラ古墳、その向こうには月出山、日出生台、そして何時の時代から呼ばれているのか分からないが、今は風力発電の風車が立つ鏡山がみえ、東南の方には、九重連山の三俣山や硫黄山なども見える。硫黄山の噴煙で天気予報も可能だ。

 今回のこの号に掲載した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の復元画像は、最新のものだ。昨年の六月に、この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のことを、私のブログで知った方が、私の念願であった鉄鏡のCG(コンピューターグラフィック)で復元してくれた。最初は、レプリカからの復元で平面的だったが、今回は実物からの復元で、より立体感が出て、素晴らしい復元鉄鏡となった。改めて、その金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の素晴らしさを再認識させられた。

 市では、ダンワラ古墳の検証もいまだ行われていない。まだ多くの未発掘の埋蔵文化財が眠っている。また、既に発掘された貴重な埋蔵物も個人の手元にあるに違いない。これらのものが出てくれば、日田の古代史にも光が当たり、町おこしも可能になる。市民の協力が必要だ。

 埋蔵文化財に限らず、豆田町の伝建保存地区、慈眼山の六点の木立像、行徳家、矢羽田家、草野家、長福寺、大野老松天満社、咸宜園跡、小鹿田焼、阿蘇の第四火砕流の埋没林、日田祗園曳山など数え上げたらきりがないほど、地球誕生、太古の昔から古代、中世、近世と宝の山だ。これらを活かさない手はない。

三年前の最初の九州国立博物館での展示の際に、来日していた中国人の学者が、鉄鏡のブースに見入ってた日田市の職員に話しかけてきて、言い残した言葉が忘れられない。

 「この九州国立博物館の展示物の中で一番素晴らしいのは、このブース、それもこの鉄鏡だ。」と。

 

 

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡について、ご意見や持論・新説等ありましたらご意見を聞かせて下さい。

メール:kun@fat.coara.or.jp

九州国立博物館・日田出土の鉄鏡・金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、卑弥呼の鏡 http://www.youtube.com/watch?v=_mFcPEUJsro&feature=related

日田出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のデジタル復元 http://www.youtube.com/watch?v=HscW9oNnaVk&feature=related

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡デジタル復元 英語バージョン HD CG restoration work -The Ancient Mirror of Queen Himiko http://www.youtube.com/watch?v=G47jqE5E8UI&NR=1

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のレプリカからの復元 http://www.youtube.com/watch?v=jZ22gH4IW-A&feature=related

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